卒業研究のご紹介
2020年版

情報系所属学生

嗅覚とベクションの相互作用に関する研究

有賀 安央衣長野県
大学院情報工学専攻 博士前期課程 2020年3月修了
(情報学部情報メディア学科/ICTスペシャリスト特別専攻 2018年3月卒業)
長野県上田高等学校出身

研究の目的

ベクションとは、例えば停車中の電車内から窓を通して、動き出した隣の電車を見た時に、自分が逆方向に動くように感じられる現象のことであり、ヘッドマウントディスプレイ(以下HMD)を用いたVRシステムでも頻繁に誘発される。これを研究することは、人間理解のための基礎研究としての価値、VR分野における新しいコンテンツ開発やベクションが意図せず強く生じて起こる映像酔いを防ぐための応用研究としての価値、複数感覚間の繋がりの研究としての価値がある。また、ベクションと同時ににおいを提示する試みもあり、映像に合ったにおいの提示はVRシステムで臨場感を向上させる方法として有効である。しかし、ベクションと嗅覚との関係については研究されていない。そこで、2つの感覚がどのように影響し合うか調査した。ベクションは運動している感覚を引き起こすため、嗅覚との関連を調べることにより、においが運動へ与える影響の調査への発展も可能と考える。

研究内容や成果等

■ 実験装置及び提示条件

(1)嗅覚刺激
ラベンダーとバナナの2種の香料を使用した。香料は濃度が5%となるよう、エタノールと精製水によって希釈した。においの提示にはインクジェット式嗅覚ディスプレイFragrance Jet2を用いた。これはインクタンクから香料を微小な液滴として空気中に射出する。射出量は数ピコリットル単位で、射出時間は0.1秒単位で制御出来る。提示された香料は極めて微細であるため、その大部分が気化する。嗅覚ディスプレイには小タンク3つが格納可能であり、それぞれ128個の微細な穴が開いている。同時に射出を行う穴の個数は1個単位で変更可能である。微細な穴1個あたりの平均射出量は一定である。0.1秒当たりの射出量は同時射出数でのみ変化させた。本研究では同時射出数を射出レベルと呼び、1〜128で設定する。
(2)視覚刺激
ベクション刺激は、図2の白色のドットが画面中央から外へ拡散する動画と、画面外から中央へ収束する動画の2種類を使用した。前者は前進方向の、後者は後退方向の移動感覚を誘発する。動画のドットのサイズは距離変化に応じて物理的な大きさが一定となるよう変化させた。左右の眼には視差のない、全く同じ映像を提示した。よって、奥行手がかりは動きによるもののみであった。視覚刺激の提示には、OculusRiftDK2を用いた。視野角は、対角110度、水平90度である。視覚刺激は視野全体に表示された。
(3)実験環境
被験者を嗅覚ディスプレイの前に座らせ、顎を顎乗せ台または積み上げた本の上に乗せた状態で行った。被験者には常にヘッドフォンを装着させた。
本体内部射出口から鼻までの距離は225mmに固定した。嗅覚ディスプレイからの風がしっかり当たるよう、提示口を斜め上に向けて設置し、被験者ごと顎の高さの調整を行った。実験中は常にファンを起動させ、ベクション知覚への風の影響をなくした。風速は約1.8m/秒であった。実験の様子を図1に示す。

図1  実験の様子

図2  ベクション刺激静止イメージ

■ 実験手続き

ベクション刺激の提示時間は40秒とした。におい射出後から香料が鼻に到達し、においを知覚するまでには時間がかかる。ベクション刺激提示時に確実ににおいを感じる状態であるように、におい刺激はベクション刺激提示の30秒前を含めた70秒間提示した。におい提示には、0.3秒の射出を1.3秒間隔で繰り返すパルス射出を用いることで、順応の影響を排除した。被験者にはベクション刺激を観察中に、ベクションを感じている時間、マウスの左ボタンを押し続けることでそれを報告させた。初めにベクションを感じるまでにかかった時間を潜時、40秒間でボタン押しを行った総時間をベクションの持続時間として記録した。刺激提示終了後に、ベクションの主観的強度(マグニチュード)の報告を行わせた。ベクションを感じないを0、とても強く感じたを100とした。この3つの評価値の取得は、これまでのベクション実験で繰り返し用いられたものである。におい刺激提示後にはにおいの主観強度を表1の6段階で回答させた。各条件、4回の試行を連続で実施した。1試行ごとに1分間の休憩を挟み、1条件ごとに5分間の休憩を挟んだ。提示順序は被験者ごとランダムとした。

■ 実験①

まず、嗅覚刺激2種、音刺激1種、それぞれを提示した場合と、香りも音も提示しない場合で、ベクション刺激2種の知覚強度を測定し、嗅覚とベクションの間に相互作用があるか調査した。刺激提示の流れを図3に示す。
ベクション知覚強度と、におい知覚強度間の相関分析を行った結果、ベクション方向をプールした場合、全ての項目で正の相関が見られた。一方で、ベクション方向ごとに相関分析を行うと、拡散条件では、主にラベンダー条件との間で相関が見られたのに対し、収束条件では、主にバナナ条件との間で相関が見られた。
因果関係を調査するために、より詳しい分析を行ったところ、「ベクションがにおい知覚へ与える影響」については、ラベンダー香料において、ベクション刺激提示下でにおいの強度が弱められるという結果が得られ、「においがベクション知覚へ与える影響」については、香りの有無はベクション知覚に有意な影響を与えず、収束刺激において差が出る傾向にあるのみとなった。
したがって、ベクションがにおい知覚へ影響を及ぼしているのか、におい知覚がベクション強度を変化させているのかは明らかではないが、これら2つの知覚の間には正の相関がある。

表1  段階臭気強度表示

図3  実験①:刺激定時の流れ

■ 実験②

実験①から、嗅覚とベクションの間に複数の正の相関があることが示されたが、どちらが影響を及ぼしているのかは明らかにならなかった。また、ベクション刺激提示下ではにおいの強度が弱められるという矛盾する結果も得られた。この原因の1つとして、知覚されたベクション強度がにおい強度に比べて大きすぎたことが挙げられた。そこで嗅覚刺激の濃度とベクション刺激の速度・密度を二段階(強弱)に変化させ、より詳細な実験を行った。被験者はベクション強/弱グループに分けた。1人当たりの刺激提示の流れを図4(略)に示す。
「ベクションがにおい知覚へ与える影響」について、ベクション強弱と香り強弱でみた、におい知覚強度の変化を図5に示す。Welchの検定の結果から、ベクション刺激が嗅覚へ与える影響が明確に見られ、先行研究(略)の成果も踏まえて強いベクション刺激は嗅覚感度を高めることが強く示唆された。
「においがベクション知覚へ与える影響」について、ベクション条件と香り有無でみた、ベクションのマグニチュードの変化を図6に示す。Welchの検定の結果から、拡散刺激、収束刺激どちらにおいても、ベクション強弱間に有意差が見られ、香りなし条件下では狙い通りベクションの強弱を判断していた一方で、香りあり条件下では拡散刺激と収束刺激で強弱が反転する結果となった。

図5  香り知覚強度(ベクション強弱×香り強弱)
(*P<0.05、**P<0.01)

図6  ベクション条件ごとのマグニチュード(ベクション方向×香り有無)
(*P<0.05、**P<0.01)

■ おわりに

本研究は、嗅覚ディスプレイを用いてにおいを、HMDを用いてベクション刺激を提示し、ベクションと嗅覚の相互作用について検討を行った。2つの実験から、ベクションと嗅覚の間には相互作用があることが明らかになった。中でも、ベクション刺激が嗅覚へ与える影響は概ね促進方向であったが、におい刺激がベクション知覚へ与える影響は不規則であった。今後は、より多くの種類の刺激を用いた場合のベクションと嗅覚の相互作用についても調査していく必要がある。
指導教員からのコメント ヒューマン・ブレインメディア研究室教授 坂内 祐一
ヒューマン・ブレインメディア研究室では、バーチャルリアリティ(VR)に香りをつける研究を行っています。たとえば、バーチャル空間にラベンダの花が咲いていたらラベンダの香り、レモンを絞ったらレモンの香りを感じたら、VRのリアリティは飛躍的に向上します。香りを提示する装置を嗅覚ディスプレイと呼び、VRで利用できる装置を自分たちで開発して、香りを感じさせるだけでなく香りを感じる嗅覚の働きも調べています。VRを利用すると映像(視覚)や音(聴覚)と嗅覚の関係を調べることができます。この研究では、点が流れる映像により自分が動いているという感覚(ベクション)が起きた時に、嗅覚にどのような影響を及ぼすのかを調べており、ベクションと嗅覚の間に関係があることが判明しました。この研究結果は日本バーチャルリアリティ学会論文誌の論文として掲載されました。
修士研究学生からの一言 有賀 安央衣
ICTスペシャリスト特別専攻生として本学に入学しました。授業で行った研究室見学で現在の研究室に出会い、大学院に進学しても続けたいと思える研究テーマを与えていただけたのはとても幸運でした。研究の結果を学術論文にまとめたり、国内外問わず様々な学会で発表できたことは貴重な経験となりました。期限内に実験を行い、原稿にまとめていくのはとても大変でしたが、丁寧に指導していただいたお陰で、内容を分かりやすくまとめて伝える能力を伸ばすことが出来たと思います。また、2度の海外研修や、研究室での留学生の受入れを通して、英語能力や自信も身につけられたと思います。様々な仲間と出会えたことも貴重な財産となりました。