卒業研究のご紹介
2020年版

情報系所属学生

多和田葉子における“性”表象―『旅をする裸の眼』論―

佐藤 優那岩手県
情報学部情報メディア学科2020年3月卒業
岩手県立久慈東高等学校出身

研究の目的

多和田葉子はドイツ語、日本語の詩、小説を手がける作家として、その文学性を高く評価されている作家です。村上春樹に次ぐ、ノーベル賞に最も近い日本人作家として海外では有名ですが、日本での知名度はまだまだ低いのが現状です。彼女の表現的特徴は国境や人種などをテーマとしたアイデンティティだと周知されていますが、作品にちりばめられた性的表現について言及したものは殆どありません。
本研究の目的は、多和田葉子の表現的特徴を性表象の視点から明らかにするとともに、性的表現をジェンダー、セクシャリティ、身体の観点から考察し、文学的コンテンツの新たな可能性、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなどのセクシャルマイノリティへの従来の価値観、性への価値観を覆す可能性を明らかにしていくことを目的としています。

研究内容や成果等

■ 研究内容

多和田葉子の作品は母語や母国に囚われない作品が多い。『旅をする裸の眼』では一見すると主人公が母語と母国というアイデンティティ、帰る場所を喪失した状態からどのように主体を見出し生きていくのか、という物語だと解釈しやすい作品だ。小説は全十三章で構成されており、そのタイトルは全て映画のタイトルである。映画の内容は様々であるがそれらには多かれ少なかれ直接的または隠喩的に性的描写があり、全ての作品にカトリーヌ=ドヌーブという女優が出演している。この小説で着眼したいのは物語に垣間見える性的表現である。それは異質的であり、冷徹で淡々と行われるが決して否定的ではなくどこか受動的で、性的な描写でありながら、そこから猥褻性を感じ取ることはできない。これはG・ドゥルーズが提唱するマゾヒズム的叙述であると捉えることができ、「セクシャリティ無き新たな人間」を体現していると言える。また性的描写には同性間も含まれている。そこにはジェンダー、セクシャリティの多様性も含まれている。
そこで本研究では、方法論的な視点として、G・ドゥルーズや、ジュディス・バトラーの文学・表象文化理論を参照しつつ、多和田葉子の“性”の表現と表象をマゾヒズム、セクシャリティ、ジェンダーの観点から分析し、新たなパラダイムの可能性を考察する。

■ 考察結果・結論

多和田葉子の性的表現は冷徹で淡々と行われ、かと思うと次の瞬間には無かったことのように霧散してしまう。それは彼女の文学に、G・ドゥルーズ的なマゾヒズム解釈、文学的マゾヒズム要素が含まれているからである。それは「官能性の否認」であり、「感情の勝利」である。多和田葉子の描き出す人物は感受性豊かであり、思考を巡らせるのが得意な傾向にある。そして、現れた官能性に感情や思考が勝利し、官能性は否認され、宙吊りにされて中性化する。快という判断は放棄され、現れた官能性は霧散するのである。
また一般的なマゾヒズムでは、男性が女性に鞭を打たれている(困難に陥れられる)が、多和田葉子のマゾヒズムにおいては女性が女性に鞭を打たれている。この同性間の行為という事実はジェンダー、セックス、セクシャリティの価値観を揺るがす可能性を大いに秘めている。『旅をする裸の眼』において、男性という存在は希薄であり、ドゥルーズの提唱するマゾヒズム、母権的マゾヒズムとなる。主体としてのアイデンティティを言語や国境に見出し、“性”アイデンティティというカテゴリーから、男女というアイデンティティから脱却しようとする多和田葉子は、現実世界を否定はせず、否認し、宙吊りにして中性化することで幻想の中の理想に向かって突き進み、全てを受け入れた上で、さらに上を、最適解を目指す。
多和田葉子の文学性とはこのように、全てを受け入れた上で限定され、確立された価値観を乗り越えようとする文学的マゾヒズムの弁証法にあるのである。

■ おわりに

現代の覆していかなければならない価値観を大いに含んだこの作品と、多和田葉子独自の世界は今後の文学的コンテンツの新たなパラダイムを切り開く大きな一手となると考えられる。
指導教員からのコメント 教授 師玉 真理 (基礎・教養教育センター/人文社会)
メディア・コンテンツを創作していく行為を、表現としての文化的価値創造という観点からみるとき、人文科学的な知見は教養以上の意義をもちます。佐藤さんが本研究を手掛けたのもそんな動機からでした。ただ、佐藤さんの研究、とりわけ、文学的マゾヒズムに関する考察は、そこを突き抜けて、専門的な領域にまで達していて(人文系の大学院の院生レベル以上)、私を驚かせました。その結果佐藤さんの論文は、コンテンツの表現論的な創作意匠の研究というにとどまらず、文学研究としても多和田葉子の文学性の一面をこれまでにない形で解き明かした秀逸な論文となりました。そんな文理の別を越えた優れた思考力をもつ佐藤さんがこれからどんな価値を創り出すのか、こころから期待しているところです。
卒業研究学生からの一言 佐藤 優那
本研究を行うにあたり、足りない知識を補うために沢山の本を読みました。哲学、理論、批評など普段手に取らないようなものばかりで理解できないことも多くありましたが、先生のご指導のおかげで、沢山の知識を培うことができました。本学の図書館は充実していて大変お世話になりました。情報学部なのに文系の研究を、と思うかもしれませんが、情報を発信する、価値観を提示するという点では媒体が違うだけであり、メディアには違いないと思います。三年間で得た知識も研究には大いに役に立ちました。私自身の価値観もこの一年で大きく変わりました。とても貴重な一年を過ごすことができました。